に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母《おっかさん》私《わたし》はこんな身体《からだ》で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟《むこ》を貰って、阿母《おっか》さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」
 謎の女は和尚《おしょう》をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀《したん》の蓋《ふた》を丁寧に被《かぶ》せる。煙管《きせる》は転がった。
「なるほど」
 和尚の声は例に似ず沈んでいる。
「そうかと申して生《うみ》の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利《き》きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」
「ふん、困るね」
 和尚は手提《てさげ》の煙草盆の浅い抽出《ひきだし》から欝金木綿《うこんもめん》の布巾《ふきん》を取り出して、鯨《くじら》の蔓《つる》を鄭重《ていちょう》に拭き出した。
「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪《にく》ければ」
「いろいろ御心配を掛けまして……」
「そうして見るかね」
「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」
「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障《さわ》らないように云うつもりですがね」
「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後《あと》が大変な騒ぎになりますから……」
「弱るね、そう、疳《かん》が高くなってちゃあ」
「まるで腫物《はれもの》へ障《さわ》るようで……」
「ふうん」と和尚《おしょう》は腕組を始めた。裄《ゆき》が短かいので太い肘《ひじ》が無作法《ぶさほう》に見える。
 謎《なぞ》の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言《しつげん》と遽色《きょしょく》である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃《そろ》えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいか
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