持が致します」
「そうですか、アハハハハ。荒川《あらかわ》には緋桜《ひざくら》と云うのがあるが、浅葱桜《あさぎざくら》は珍らしい」
「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」
「ないですよ。もっとも桜も好事家《こうずか》に云わせると百幾種とかあるそうだから……」
「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。
「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一《はじめ》が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気《のんき》なものでアハハハハ。――どうです粗菓《そか》だが一つ御撮《おつま》みなさい。岐阜《ぎふ》の柿羊羹《かきようかん》」
「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」
「あんまり、旨《うま》いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸《はし》を上げて皿の中から剥《は》ぎ取った羊羹の一片《ひときれ》を手に受けて、独《ひと》りでむしゃむしゃ食う。
「嵐山と云えば」と甲野《こうの》の母は切り出した。
「せんだって中《じゅう》は欽吾《きんご》がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭《おかげ》様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者《わがままもの》でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」
「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」
「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友《ほうゆう》と申すものがただの一人もございませんそうで……」
「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合《つきあい》が出来にくくなる。アハハハハ」
「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝《ふさ》いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」
「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家《うち》にさえいるとあなた、妹《いもと》にばかりからかって――いや、あれでも困る」
「いえ、誠に陽気で淡泊《さっぱり》してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人《あれ》の病気のせいだから、
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