《あいきょう》が湧《わ》いて出る。漾《ただよ》うは笑の波だと云う。攪《か》き淆《ま》ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品《ひん》よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛《のうがかり》である。大和尚《だいおしょう》の怖《こわ》がらぬのも無理はない。
「いや。だいぶ御暖《おあったか》になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌《てのひら》を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。
「その後《のち》は……」
「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。
「ちょっと出ますんでございますが、つい無人《ぶにん》だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰《ごぶさた》になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後《あと》をつける。
「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。
「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。
 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。
「御宅でも皆様御変りもなく……毎々|欽吾《きんご》や藤尾《ふじお》が出まして、御厄介《ごやっかい》にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」
 頭はここでようやく上がる。阿父《おとっさん》はほっと気息《いき》をつく。
「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖《あった》かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが
「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛《さかり》でしょう」で結んでしまった。
「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日|前《ぜん》がちょうど観頃《みごろ》でございましたが、一昨日《いっさくじつ》の風で、だいぶ傷《いた》められまして、もう……」
「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜《あさぎざくら》。そうそう。あの色が珍らしい」
「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄《すご》いような心
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