「風もないのに埃が立つから妙だよ」
「だって」
「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」
「ええ随分|苛《ひど》くってよ」
「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と廂《ひさし》の外を下から覗《のぞ》いて見る。空は曇る心持ちを透《す》かして春の日があやふやに流れている。琴の音《ね》がまだ聴《きこ》える。
「おや琴を弾いているね。――なかなか旨《うま》い。ありゃ何だい」
「当てて御覧なさい」
「当てて見ろ。ハハハハ阿父《おとっさん》には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような烈《はげ》しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」
 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。
「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に笑《えみ》を浮べて見せる。老人は世に疎《うと》いわれを憐れむ孝心と受取った。
「アハハハハ本当に帰ろうかね」
「本当に帰ってもようござんすわ」
「なぜ」
「なぜでも」
「だって来たばかりじゃないか」
「来たばかりでも構いませんわ」
「構わない? ハハハハ冗談《じょうだん》を……」
 娘は下を向いた。
「小野が来たそうだね」
「ええ」娘はやっぱり下を向いている。
「小野は――小野は何かね――」
「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。
「小野は――来たんだね」
「ええ、いらしってよ」
「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」
「いいえ別に……」
「何にも云わない?――待ってれば好いのに」
「急ぐからまた来るって御帰りになりました」
「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」
「阿父様《おとうさま》」
「何だね」
「小野さんは御変りなさいましたね」
「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で逢《あ》った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」
 娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。
「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」
 後《あと》の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。
「変っていないたっ
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