いずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、今日《きょう》を明日《あす》と、その日に数《はか》る命は、文《あや》も理《め》も危《あやう》い。……
 格子《こうし》ががらりと開《あ》く。古《いにしえ》の人は帰った。
「今帰ったよ。どうも苛《ひど》い埃《ほこり》でね」
「風もないのに?」
「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は厭《いや》な所だ。京都の方がよっぽどいいね」
「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」
「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で足袋《たび》をはたいて座に直った老人は、
「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」
「ええ。小野さんがいらしって……」
「小野が? そりゃあ」と云ったが、提《さ》げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。
「今日はね。座布団《ざぶとん》を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に逢《あ》った」
「おやおや」と気の毒そうに微笑《ほほえ》んだ娘は
「でも布団は御買いになって?」と聞く。
「ああ、布団だけはここへ買って来たが、御蔭《おかげ》で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから八丈《はちじょう》まがいの黄な縞《しま》を取り出す。
「何枚買っていらしって」
「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。
「ホホホホあなた御敷なさいよ」
「阿父《おとっさん》も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」
「少し綿が硬いようね」
「綿はどうせ――価《ね》が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り損《そく》なってしまって……」
「乗替をなさらなかったんじゃないの」
「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。忌々《いまいま》しいから帰りには歩いて来た」
「御草臥《おくたびれ》なすったでしょう」
「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で髯《ひげ》も何も埃《ほこり》だらけになっちまった。こら」と右手《めて》の指を四本|并《なら》べて櫛《くし》の代りに顎《あご》の下を梳《す》くと、果して薄黒いものが股について来た。
「御湯に御這入《おはい》んなさらないからですよ」
「なに埃だよ」
「だって風もないのに
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