ります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは没義道《もぎどう》に離れて行く。未練も会釈《えしゃく》もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は惘然《もうぜん》として、椽《えん》に近く坐った。
降らんとして降り損《そこ》ねた空の奥から幽《かす》かな春の光りが、淡き雲に遮《さえ》ぎられながら一面に照り渡る。長閑《のど》かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく欝陶《うっとう》しい。どこやらで琴の音《ね》がする。わが弾《ひ》くべきは塵《ちり》も払わず、更紗《さらさ》の小包を二つ並べた間に、袋のままで淋《さび》しく壁に持たれている。いつ欝金《うこん》の掩《おい》を除《の》ける事やら。あの曲はだいぶ熟《な》れた手に違ない。片々に抑えて片々に弾《はじ》く爪の、安らかに幾関《いくせき》の柱《じ》を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は甲斐甲斐《かいがい》しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい昨日《きのう》のように思う。ちらちらに昼の蛍《ほたる》と竹垣に滴《したた》る連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》に、朝から降って退屈だと阿父様《とうさま》がおっしゃる。繻子《しゅす》の袖口は手頸《てくび》に滑《すべ》りやすい。絹糸を細長く目に貫《ぬ》いたまま、針差の紅《くれない》をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、鮮《あざや》かに眼を醒《さ》ませと、へ[#「へ」に傍点]の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か撥《は》ねた。曲はたしか小督《こごう》であった。狂う指の、憂《う》き昼を、くちゃくちゃに揉《も》みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、琴《こと》の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の好《すき》な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、闇《やみ》を破る烏《からす》の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに洋琴《ピアノ》でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。阿父《とうさま》は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世は
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