し阿母《おっか》さんが心配するだろう」
 甲野さんは何とも答えなかった。この老人も自分の母を尋常の母と心得ている。世の中に自分の母の心のうちを見抜いたものは一人《いちにん》もない。自分の母を見抜かなければ自分に同情しようはずがない。甲野さんは眇然《びょうぜん》として天地の間《あいだ》に懸《かか》っている。世界滅却の日をただ一人《ひとり》生き残った心持である。
「君がぐずぐずしていると藤尾さんも困るだろう。女は年頃をはずすと、男と違って、片づけるにも骨が折れるからね」
 敬うべく愛すべき宗近の父は依然として母と藤尾の味方である。甲野さんは返事のしようがない。
「一《はじめ》にも貰って置かんと、わしも年を取っているから、いつどんな事があるかも知れないからね」
 老人は自分の心で、わが母の心を推《すい》している。親と云う名が同じでも親と云う心には相違がある。しかし説明は出来ない。
「僕は外交官の試験に落第したから当分駄目ですよ」と宗近が横から口を出した。
「去年は落第さ。今年の結果はまだ分らんだろう」
「ええ、まだ分らんです。ですがね、また落第しそうですよ」
「なぜ」
「やっぱりのらくら[#「のらくら」に傍点]以上だからでしょう」
「アハハハハ」
 今夕《こんせき》の会話はアハハハハに始まってアハハハハに終った。

        九

 真葛《まくず》が原《はら》に女郎花《おみなえし》が咲いた。すらすらと薄《すすき》を抜けて、悔《くい》ある高き身に、秋風を品《ひん》よく避《よ》けて通す心細さを、秋は時雨《しぐれ》て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る霜《しも》に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕《あさゆう》に頼み少なく繋《つ》なぐ。冬は五年の長きを厭《いと》わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に貧《まずしさ》を知らぬ春の天下に紛《まぎ》れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って富貴《ふうき》に色づくを、ひそかなる黄を、一本《ひともと》の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く憚《はば》かりの呼吸《いき》を吹くようである。
 今までは珠《たま》よりも鮮《あざ》やかなる夢を抱《いだ》いていた。真黒闇《まくらやみ》に据《す》えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に懸《か》ける暇《いとま》もなかった。懐《ふところ》に
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