いいが――坂本までは山道二里ばかりありますぜ」
「あるだろう、そのくらいは」
「それを夜の十一時から下りて、蕎麦を食って、それからまた登るんですからね」
「だから、どうなんだい」
「到底《とても》のらくら[#「のらくら」に傍点]じゃ出来ない仕事ですよ」
「アハハハハ」と老人は大きな腹を競《せ》り出して笑った。洋灯《ランプ》の蓋《かさ》が喫驚《びっくり》するくらいな声である。
「あれでも昔しは真面目な坊主がいたものでしょうか」と今度は甲野さんがふと思い出したような様子で聞いて見る。
「それは今でもあるよ。真面目なものが世の中に少ないごとく、僧侶《そうりょ》にも多くはないが――しかし今だって全く無い事はない。何しろ古い寺だからね。あれは始めは一乗止観院《いちじょうしかんいん》と云って、延暦寺となったのはだいぶ後《あと》の事だ。その時分から妙な行《ぎょう》があって、十二年間山へ籠《こも》り切りに籠るんだそうだがね」
「蕎麦どころじゃありませんね」
「どうして。――何しろ一度も下山しないんだから」
「そう山の中で年ばかり取ってどうする了見《りょうけん》かな」
と宗近君が今度は独語《ひとりごと》のように云う。
「修業するのさ。御前達もそうのらくら[#「のらくら」に傍点]しないでちとそんな真似《まね》でもするがいい」
「そりゃ駄目ですよ」
「なぜ」
「なぜって。僕は出来ない事もないが、そうした日にゃ、あなたの命令に背《そむ》く訳になりますからね」
「命令に?」
「だって人の顔を見るたんびに嫁を貰え嫁を貰えとおっしゃるじゃありませんか。これから十二年も山へ籠《こも》ったら、嫁を貰う時分にゃ腰が曲がっちまいます」
 一座はどっと噴《ふ》き出した。老人は首を少し上げて頭の禿を逆《さか》に撫でる。垂れ懸った頬の肉が顫《ふる》え落ちそうだ。糸子は俯向《うつむ》いて声を殺したため二重瞼《ふたえまぶた》が薄赤くなる。甲野さんの堅い口も解けた。
「いや修業も修業だが嫁も貰わなくちゃあ困る。何しろ二人だから億劫《おっくう》だ。――欽吾《きんご》さんも、もう貰わなければならんね」
「ええ、そう急には……」
 いかにも気の無い返事をする。嫁を貰うくらいなら十二年叡山へでも籠《こも》る方が増しであると心のうちに思う。すべてを見逃さぬ糸子の目には欽吾の心がひらりと映った。小さい胸が急に重くなる。
「しか
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