木+棠」、第3水準1−86−14]《とう》に相輪《そうりん》と云い、院に浄土と云うも、ただ名と年と歴史を記《き》して吾事《わがこと》畢《おわ》ると思うは屍《しかばね》を抱《いだ》いて活ける人を髣髴《ほうふつ》するようなものである。見るは名あるがためではない。観ずるは見るがためではない。太上《たいじょう》は形を離れて普遍の念に入る。――甲野さんが叡山《えいざん》に登って叡山を知らぬはこの故である。
過去は死んでいる。大法鼓《だいほうこ》を鳴らし、大法螺《だいほうら》を吹き、大法幢《だいほうとう》を樹《た》てて王城の鬼門を護《まも》りし昔《むか》しは知らず、中堂に仏眠りて天蓋《てんがい》に蜘蛛《くも》の糸引く古伽藍《ふるがらん》を、今《いま》さらのように桓武《かんむ》天皇の御宇《ぎょう》から堀り起して、無用の詮議《せんぎ》に、千古の泥を洗い落すは、一日に四十八時間の夜昼ある閑人《ひまじん》の所作《しょさ》である。現在は刻《こく》をきざんで吾《われ》を待つ。有為《うい》の天下は眼前に落ち来《きた》る。双の腕《かいな》は風を截《き》って乾坤《けんこん》に鳴る。――これだから宗近君は叡山に登りながら何にも知らぬ。
ただ老人だけは太平である。天下の興廃は叡山|一刹《いっさつ》の指揮によって、夜来《やらい》、日来《にちらい》に面目を新たにするものじゃと思い籠《こ》めたように、※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》として叡山を説く。説くは固《もと》より青年に対する親切から出る。ただ青年は少々迷惑である。
「不便だって、修業のためにわざわざ、ああ云う山を択《えら》んで開くのさ。今の大学などはあまり便利な所にあるから、みんな贅沢《ぜいたく》になって行かん。書生の癖に西洋菓子だの、ホイスキーだのと云って……」
宗近君は妙な顔をして甲野さんを見た。甲野さんは存外|真面目《まじめ》である。
「阿爺《おとっさん》叡山の坊主は夜十一時頃から坂本まで蕎麦《そば》を食いに行くそうですよ」
「アハハハ真逆《まさか》」
「なに本当ですよ。ねえ甲野さん。――いくら不便だって食いたいものは食いたいですからね」
「それはのらくら[#「のらくら」に傍点]坊主だろう」
「すると僕らはのらくら[#「のらくら」に傍点]書生かな」
「御前達はのらくら[#「のらくら」に傍点]以上だ」
「僕らは以上でも
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