と注意した。
硝子戸《ガラスど》を押し開《あ》けて、隣りの車室へ足を踏み込んだ甲野さんは、真直《まっすぐ》に抜ける気で、中途まで来た時、宗近君が後《うし》ろから、ぐいと背広の尻を引っ張った。
「御飯が少し冷えてますね」
「冷えてるのはいいが、硬過《こわす》ぎてね。――阿爺《おとっさん》のように年を取ると、どうも硬《こわ》いのは胸に痞《つか》えていけないよ」
「御茶でも上がったら……注《つ》ぎましょうか」
青年は無言のまま食堂へ抜けた。
日ごと夜ごとを入り乱れて、尽十方《じんじっぽう》に飛び交《か》わす小世界の、普《あま》ねく天涯《てんがい》を行き尽して、しかも尽くる期なしと思わるるなかに、絹糸の細きを厭《いと》わず植えつけし蚕《かいこ》の卵の並べるごとくに、四人の小宇宙は、心なき汽車のうちに行く夜半《よわ》を背中合せの知らぬ顔に並べられた。星の世は掃《は》き落されて、大空の皮を奇麗に剥《は》ぎ取った白日の、隠すなかれと立ち上《のぼ》る窓の中《うち》に、四人の小宇宙は偶《ぐう》を作って、ここぞと互に擦《す》れ違った。擦れ違って通り越した二個の小宇宙は今白い卓布《たくふ》を挟んでハムエクスを平げつつある。
「おいいたぜ」と宗近君が云う。
「うんいた」と甲野さんは献立表《メヌー》を眺《なが》めながら答える。
「いよいよ東京へ行くと見える。昨夕《ゆうべ》京都の停車場《ステーション》では逢わなかったようだね」
「いいや、ちっとも気がつかなかった」
「隣りに乗ってるとは僕も知らなかった。――どうも善く逢うね」
「少し逢い過ぎるよ。――このハムはまるで膏《あぶら》ばかりだ。君のも同様かい」
「まあ似たもんだ。君と僕の違ぐらいなところかな」と宗近君は肉刺《フォーク》を逆《さかしま》にして大きな切身を口へ突き込む。
「御互に豚をもって自任しているのかなあ」と甲野さんは、少々|情《なさ》けなさそうに白い膏味《あぶらみ》を頬張《ほおば》る。
「豚でもいいが、どうも不思議だよ」
「猶太人《ユデアじん》は豚を食わんそうだね」と甲野さんは突然超然たる事を云う。
「猶太人《ユデアじん》はともかくも、あの女がさ。少し不思議だよ」
「あんまり逢うからかい」
「うん。――給仕《ボーイ》紅茶を持って来い」
「僕はコフィーを飲む。この豚は駄目だ」と甲野さんはまた女を外《はず》してしまう。
「これで何
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