遍逢うかな。一遍、二遍、三遍と何でも三遍ばかり逢うぜ」
「小説なら、これが縁になって事件が発展するところだね。これだけでまあ無事らしいから……」と云ったなり甲野さんはコフィーをぐいと飲む。
「これだけで無事らしいから御互に豚なんだろう。ハハハハ。――しかし何とも云われない。君があの女に懸想《けそう》して……」
「そうさ」と甲野さん、相手の文句を途中で消してしまった。
「それでなくっても、このくらい逢うくらいだからこの先、どう関係がつかないとも限らない」
「君とかい」
「なにさ、そんな関係じゃないほかの関係さ。情交以外の関係だよ」
「そう」と甲野さんは、左の手で顎《あご》を支《ささ》えながら、右に持ったコフィー茶碗を鼻の先に据《す》えたままぼんやり向うを見ている。
「蜜柑《みかん》が食いたい」と宗近君が云う。甲野さんは黙っている。やがて
「あの女は嫁にでも行くんだろうか」と毫《ごう》も心配にならない気色《けしき》で云う。
「ハハハハ。聞いてやろうか」と挨拶《あいさつ》も聞く料簡《りょうけん》はなさそうである。
「嫁か? そんなに嫁に行きたいものかな」
「だからさ、そりゃ聞いて見なけりゃあ分からないよ」
「君の妹なんぞは、どうだ。やっぱり行きたいようかね」と甲野さんは妙な事を真面目《まじめ》に聞き出した。
「糸公か。あいつは、から赤児《ねんね》だね。しかし兄思いだよ。狐の袖無《ちゃんちゃん》を縫ってくれたり、なんかしてね。あいつは、あれで裁縫が上手なんだぜ。どうだ肱突《ひじつき》でも造《こしら》えてもらってやろうか」
「そうさな」
「いらないか」
「うん、いらん事もないが……」
 肱突は不得要領に終って、二人は食卓を立った。孤堂先生の車室を通り抜けた時、先生は顔の前に朝日新聞を一面に拡《ひろ》げて、小夜子は小さい口に、玉子焼をすくい込んでいた。四個の小世界はそれぞれに活動して、二たたび列車のなかに擦《す》れ違ったまま、互の運命を自家の未来に危ぶむがごとく、また怪しまざるがごとく、測るべからざる明日《あす》の世界を擁して新橋の停車場《ステーション》に着く。
「さっき馳《か》けて行ったのは小野じゃなかったか」と停車場を出る時、宗近君が聞いて見る。
「そうか。僕は気がつかなかったが」と甲野さんは答えた。
 四個の小世界は、停車場《ステーション》に突き当って、しばらく、ばらばら
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