もだ。ごもっともな事ばかり云う男だ。ちっと富士でも見るがいい」
「叡山《えいざん》よりいいよ」
「叡山? 何だ叡山なんか、たかが京都の山だ」
「大変|軽蔑《けいべつ》するね」
「ふふん。――どうだい、あの雄大な事は。人間もああ来なくっちゃあ駄目だ」
「君にはああ落ちついちゃいられないよ」
「保津川が関の山か。保津川でも君より上等だ。君なんぞは京都の電車ぐらいなところだ」
「京都の電車はあれでも動くからいい」
「君は全く動かないか。ハハハハ。さあ駱駝を払い退《の》けて動いた」と宗近君は頭陀袋《ずだぶくろ》を棚《たな》から取り卸《おろ》す。室《へや》のなかはざわついてくる。明かるい世界へ馳《か》け抜けた汽車は沼津で息を入れる。――顔を洗う。
 窓から肉の落ちた顔が半分出る。疎髯《そぜん》を一本ごとにあるいは黒くあるいは白く朝風に吹かして
「おい弁当を二つくれ」と云う。孤堂先生は右の手に若干《そこばく》の銀貨を握って、へぎ[#「へぎ」に傍点]折《おり》を取る左と引《ひ》き換《かえ》に出す。御茶は部屋のなかで娘が注《つ》いでいる。
「どうだね」と折の蓋《ふた》を取ると白い飯粒が裏へ着いてくる。なかには長芋《ながいも》の白茶《しらちゃ》に寝転んでいる傍《かたわ》らに、一片《ひときれ》の玉子焼が黄色く圧《お》し潰《つぶ》されようとして、苦し紛れに首だけ飯の境に突き込んでいる。
「まだ、食べたくないの」と小夜子は箸《はし》を執《と》らずに折ごと下へ置く。
「やあ」と先生は茶碗を娘から受取って、膝の上の折に突き立てた箸《はし》を眺《なが》めながら、ぐっと飲む。
「もう直《じき》ですね」
「ああ、もう訳はない」と長芋《ながいも》が髯の方へ動き出した。
「今日はいい御天気ですよ」
「ああ天気で仕合せだ。富士が奇麗《きれい》に見えたね」と長芋が髯から折のなかへ這入《はい》る。
「小野さんは宿を捜《さ》がして置いて下すったでしょうか」
「うん。捜が――捜がしたに違ない」と先生の口が、喫飯《めし》と返事を兼勤する。食事はしばらく継続する。
「さあ食堂へ行こう」と宗近君が隣りの車室で米沢絣《よねざわがすり》の襟《えり》を掻き合せる。背広の甲野さんは、ひょろ長く立ち上がった。通り道に転がっている手提革鞄《てさげかばん》を跨《また》いだ時、甲野さんは振り返って
「おい、蹴爪《けつま》ずくと危ない」
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