うね」
「いらっしゃるでしょうとも」
夢は再び躍《おど》る。躍るなと抑えたるまま、夜を込めて揺られながらに、暗きうちを駛《か》ける。老人は髯から手を放す。やがて眼を眠《ねむ》る。人も犬も草も木も判然《はき》と映らぬ古き世界には、いつとなく黒い幕が下りる。小さき胸に躍りつつ、転《まわ》りつつ、抑えられつつ走る世界は、闇を照らして火のごとく明かである。小夜子はこの明かなる世界を抱《いだ》いて眠についた。
長い車は包む夜を押し分けて、やらじと逆《さか》う風を打つ。追い懸くる冥府《よみ》の神を、力ある尾に敲《たた》いて、ようやくに抜け出でたる暁の国の青く煙《けぶ》る向うが一面に競《せ》り上がって来る。茫々《ぼうぼう》たる原野の自《おのず》から尽きず、しだいに天に逼《せま》って上へ上へと限りなきを怪しみながら、消え残る夢を排して、眼《まなこ》を半天に走らす時、日輪の世は明けた。
神の代《よ》を空に鳴く金鶏《きんけい》の、翼《つばさ》五百里なるを一時に搏《はばたき》して、漲《みな》ぎる雲を下界に披《ひら》く大虚の真中《まんなか》に、朗《ほがらか》に浮き出す万古《ばんこ》の雪は、末広になだれて、八州の野《や》を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫《そうぼう》の裡《うち》に、腰から下を埋《うず》めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫《むらさき》の襞《ひだ》と藍《あい》の襞とを斜《なな》めに畳んで、白き地《じ》を不規則なる幾条《いくすじ》に裂いて行く。見上ぐる人は這《は》う雲の影を沿うて、蒼暗《あおぐら》き裾野《すその》から、藍、紫の深きを稲妻《いなずま》に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然《かつぜん》として眼が醒《さ》める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘《いざな》う。
「おい富士が見える」と宗近君が座を滑《すべ》り下りながら、窓をはたりと卸《おろ》す。広い裾野《すその》から朝風がすうと吹き込んでくる。
「うん。さっきから見えている」と甲野さんは駱駝《らくだ》の毛布《けっと》を頭から被《かむ》ったまま、存外冷淡である。
「そうか、寝《ね》なかったのか」
「少しは寝た」
「何だ、そんなものを頭から被って……」
「寒い」と甲野さんは膝掛の中で答えた。
「僕は腹が減った。まだ飯は食わさないだろうか」
「飯を食う前に顔を洗わなくっちゃ……」
「ごもっと
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