る二人の世界が、細長い夜《よ》を糸のごとく照らして動く電灯の下《もと》にあらわれて来る。
 色白く、傾く月の影に生れて小夜《さよ》と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居《すまい》に、盂蘭盆《うらぼん》の灯籠《とうろう》を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊《しょうりょう》を、東京の苧殻《おがら》で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗《の》し掛《かか》る怒《いかり》は、撫《な》で下《おろ》す絹しなやかに情《なさけ》の裾《すそ》に滑《すべ》り込む。
 紫に驕《おご》るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連《つら》なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長《たけなが》を顫《ふる》わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴《した》たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫《かっ》と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透《とお》って、当時《そのかみ》を裏返す折々にさえ鮮《あざや》かに煮染《にじ》んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒《はるさむ》の懐《ふところ》に暖めつつ、黒く動く一条の車に載《の》せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱《だ》きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑《みど》りを衝《つ》き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱《いだ》く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇《くらやみ》の遠きより切り放して、現実の前に抛《な》げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢《お》うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。
 隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとに※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》の下に白くなる疎髯《そぜん》を握っては昔《むか》しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠《こも》って容易には出て来ない。漠々《ばくばく》たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる
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