》を棚《たな》へ上げた腰を卸《おろ》しながら笑う。相手は半分顔を背《そむ》けて硝子越《ガラスごし》に窓の外を透《すか》して見る。外はただ暗いばかりである。汽車は遠慮もなく暗いなかを突切って行く。轟《ごう》と云う音のみする。人間は無能力である。
「随分早いね。何|哩《マイル》くらいの速力か知らん」と宗近君が席の上へ胡坐《あぐら》をかきながら云う。
「どのくらい早いか外が真暗でちっとも分らん」
「外が暗くったって、早いじゃないか」
「比較するものが見えないから分らないよ」
「見えなくったって、早いさ」
「君には分るのか」
「うん、ちゃんと分る」と宗近君は威張って胡坐をかき直す。話しはまた途切れる。汽車は速度を増して行く。向《むこう》の棚《たな》に載せた誰やらの帽子が、傾いたまま、山高の頂《いただき》を顫《ふる》わせている。給仕《ボーイ》が時々室内を抜ける。大抵の乗客は向い合せに顔と顔を見守っている。
「どうしても早いよ。おい」と宗近君はまた話しかける。甲野さんは半分眼を眠《ねむ》っていた。
「ええ?」
「どうしてもね、――早いよ」
「そうか」
「うん。そうら――早いだろう」
 汽車は轟《ごう》と走る。甲野さんはにやりと笑ったのみである。
「急行列車は心持ちがいい。これでなくっちゃ乗ったような気がしない」
「また夢窓国師より上等じゃないか」
「ハハハハ第一義に活動しているね」
「京都の電車とは大違だろう」
「京都の電車か? あいつは降参だ。全然第十義以下だ。あれで運転しているから不思議だ」
「乗る人があるからさ」
「乗る人があるからって――余《あんま》りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞《ほ》める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵《こうりょう》一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
 甲野さんは返事を見合せて口を緘《と》じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟《ごう》と走る。二人の世界はしばらく闇《やみ》の中に揺られながら消えて行く。同時に、残
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