う」
「ええ、所によれば見えます」
「加茂川の岸には柳がありますか」
「ええ、あります」
「その柳が、遠くに煙《けむ》るように見えるんです。その上に東山が――東山でしたね奇麗な丸《まある》い山は――あの山が、青い御供《おそなえ》のように、こんもりと霞《かす》んでるんです。そうして霞のなかに、薄く五重の塔が――あの塔の名は何と云いますか」
「どの塔です」
「どの塔って、東山の右の角に見えるじゃありませんか」
「ちょっと覚えませんね」と小野さんは首を傾《かた》げる。
「有るんです、きっとあります」と藤尾が云う。
「だって琴は隣りよ、あなた」と糸子が口を出す。
 女詩人《じょしじん》の空想はこの一句で破れた。家庭的の女は美くしい世をぶち壊しに生れて来たも同様である。藤尾は少しく眉を寄せる。
「大変御急ぎだ事」
「なに、面白く伺ってるのよ。それからその五重の塔がどうかするの」
 五重の塔がどうもする訳《わけ》はない。刺身を眺めただけで台所へ下げる人もある。五重の塔をどうかしたがる連中は、刺身を食わなければ我慢の出来ぬように教育された実用主義の人間である。
「それじゃ五重の塔はやめましょう」
「面白いんですよ。五重の塔が面白いのよ。ねえ小野さん」
 御機嫌に逆《さから》った時は、必ず人をもって詫《わび》を入れるのが世間である。女王の逆鱗《げきりん》は鍋《なべ》、釜《かま》、味噌漉《みそこし》の御供物《おくもつ》では直せない。役にも立たぬ五重の塔を霞《かすみ》のうちに腫物《はれもの》のように安置しなければならぬ。
「五重の塔はそれっきりよ。五重の塔がどうするものですかね」
 藤尾の眉《まゆ》はぴくりと動いた。糸子は泣きたくなる。
「御気に障《さわ》ったの――私が悪るかったわ。本当に五重の塔は面白いのよ。御世辞じゃない事よ」
 針鼠《はりねずみ》は撫《な》でれば撫でるほど針を立てる。小野さんは、破裂せぬ前にどうかしなければならぬ。
 五重の塔を持ち出せばなお怒《おこ》られる。琴の音《ね》は自分に取って禁物である。小野さんはどうして調停したら好かろうかと考えた。話が京都を離れれば自分には好都合だが、むやみに縁のない離し方をすると、糸子さん同様に軽蔑《けいべつ》を招く。向うの話題に着いて廻って、しかも自分に苦痛のないように発展させなければならぬ。銀時計の手際ではちとむずかし過ぎるよう
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