板返《といたがえ》しにずどんと過去へ落ちた。
 追い懸けて来る過去を逃《の》がるるは雲紫《くもむらさき》に立ち騰《のぼ》る袖香炉《そでこうろ》の煙《けぶ》る影に、縹緲《ひょうびょう》の楽しみをこれぞと見極《みきわ》むるひまもなく、貪《むさ》ぼると云う名さえつけがたき、眼と眼のひたと行き逢いたる一拶《いっさつ》に、結ばぬ夢は醒《さ》めて、逆《さか》しまに、われは過去に向って投げ返される。草間蛇《そうかんだ》あり、容易に青《せい》を踏む事を許さずとある。
「蔦屋《つたや》がどうかしたの」と藤尾は糸子に向う。
「なにその蔦屋にね、欽吾さんと兄さんが宿《とま》ってるんですって。だから、どんな所《とこ》かと思って、小野さんに伺って見たんです」
「小野さん知っていらしって」
「三条ですか。三条の蔦屋と。そうですね、有ったようにも覚えていますが……」
「それじゃ、そんな有名な旅屋《はたごや》じゃないんですね」と糸子は無邪気に小野さんの顔を見る。
「ええ」と小野さんは切なそうに答えた。今度は藤尾の番となる。
「有名でなくったって、好いじゃありませんか。裏座敷で琴が聴《きこ》えて――もっとも兄と一さんじゃ駄目ね。小野さんなら、きっと御気に入るでしょう。春雨がしとしと降ってる静かな日に、宿の隣家《おとなり》で美人が琴を弾《ひ》いてるのを、気楽に寝転《ねころ》んで聴いているのは、詩的でいいじゃありませんか」
 小野さんはいつになく黙っている。眼さえ、藤尾の方へは向けないで、床《とこ》の山吹を無意味に眺《なが》めている。
「好いわね」と糸子が代理に答える。
 詩を知らぬ人が、趣味の問題に立ち入る権利はない。家庭的の女子からいいわね[#「いいわね」に傍点]ぐらいの賛成を求めて満足するくらいなら始めから、春雨も、奥座敷も、琴の音《ね》も、口に出さぬところであった。藤尾は不平である。
「想像すると面白い画《え》が出来ますよ。どんな所としたらいいでしょう」
 家庭的の女子には、なぜこんな質問が出てくるのか、とんとその意を解《げ》しかねる。要《い》らぬ事と黙って控《ひか》えているより仕方がない。小野さんは是非共口を開かねばならぬ。
「あなたは、どんな所がいいと思います」
「私? 私はね、そうね――裏二階がいいわ――廻《まわ》り椽《えん》で、加茂川がすこし見えて――三条から加茂川が見えても好いんでしょ
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