堪《た》えず、俯目《ふしめ》に人を避けて、名物の団子を眺《なが》めている。薄く染めた綸子《りんず》の被布《ひふ》に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる衣《きぬ》の色は見えぬ。ただ襟元《えりもと》より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。
「あれだよ」
「あれが?」
「あれが琴《こと》を弾《ひ》いた女だよ。あの黒い羽織は阿爺《おやじ》に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪《ひょうたん》に酔《えい》を飾る三五の癡漢《うつけもの》が、天下の高笑《たかわらい》に、腕を振って後《うし》ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、体《たい》を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が真《ま》っ盛《さか》りである。
六
丸顔に愁《うれい》少し、颯《さっ》と映《うつ》る襟地《えりじ》の中から薄鶯《うすうぐいす》の蘭《らん》の花が、幽《かすか》なる香《か》を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子《いとこ》はこんな女である。
人に示すときは指を用いる。四つを掌《たなごころ》に折って、余る第二指のありたけにあれぞと指《さ》す時、指す手はただ一筋の紛《まぎ》れなく明らかである。五本の指をあれ見よとことごとく伸ばすならば、西東は当るとも、当ると思わるる感じは鈍くなる。糸子は五指を並べたような女である。受ける感じが間違っているとは云えぬ。しかし変だ。物足らぬとは指点《さ》す指の短かきに過ぐる場合を云う。足り余るとは指点《さ》す指の長きに失する時であろう。糸子は五指を同時に並べたような女である。足るとも云えぬ。足り余るとも評されぬ。
人に指点《さ》す指の、細《ほっ》そりと爪先《つまさき》に肉を落すとき、明かなる感じは次第に爪先に集まって焼点《しょうてん》を構成《かたちづく》る。藤尾《ふじお》の指は爪先の紅《べに》を抜け出でて縫針の尖《と》がれるに終る。見るものの眼は一度に痛い。要領を得ぬものは橋を渡らぬ。要領を得過ぎたものは欄干《らんかん》を渡る。欄干を渡るものは水に落ちる恐れがある。
藤尾と糸子は六畳の座敷で五指と針の先との戦争をしている。すべての会話は戦争である。女の会話はもっとも戦争である。
「しばらく御目に懸《かか》りませんね。よくいらしった事」と藤尾は主人役に云
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