人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち遣《や》った。
「そう困った日にゃ方《ほう》が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照《かんたんあいて》らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに違《ちがい》ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙然《もくねん》として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと昔《むか》し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川《ほづがわ》と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を敲《たた》く。
乱れ起る岩石を左右に※[#「榮の木に代えて糸」、第3水準1−90−16]《めぐ》る流は、抱《いだ》くがごとくそと割れて、半ば碧《みど》りを透明に含む光琳波《こうりんなみ》が、早蕨《さわらび》に似たる曲線を描《えが》いて巌角《いわかど》をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山《らんざん》どす」と長い棹《さお》を舷《こべり》のうちへ挿《さ》し込んだ船頭が云う。鳴る櫂《かい》に送られて、深い淵《ふち》を滑《すべ》るように抜け出すと、左右の岩が自《おのずか》ら開いて、舟は大悲閣《だいひかく》の下《もと》に着いた。
二人は松と桜と京人形の群《むら》がるなかに這《は》い上がる。幕と連《つら》なる袖《そで》の下を掻《か》い潜《く》ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。
赤松の二抱《ふたかかえ》を楯《たて》に、大堰《おおい》の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の袂《たもと》の葭簀茶屋《よしずぢゃや》に、高島田が休んでいる。昔しの髷《まげ》を今の世にしばし許せと被《かぶ》る瓜実顔《うりざねがお》は、花に臨んで風に
前へ
次へ
全244ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング