あるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
「さあ飲みたまえ」と津田君が促《うな》がす。
「この馬はなかなか勢がいい。あの尻尾《しっぽ》を振って鬣《たてがみ》を乱している所は野馬《のんま》だね」と茶を飲まない代りに馬を賞《ほ》めてやった。
「冗談《じょうだん》じゃない、婆さんが急に犬になるかと、思うと、犬が急に馬になるのは烈《はげ》しい。それからどうしたんだ」としきりに後《あと》を聞きたがる。茶は飲まんでも差《さ》し支《つか》えない事となる。
「婆さんが云うには、あの鳴き声はただの鳴き声ではない、何でもこの辺に変《へん》があるに相違ないから用心しなくてはいかんと云うのさ。しかし用心をしろと云ったって別段用心の仕様《しよう》もないから打ち遣《や》って置くから構わないが、うるさいには閉口だ」
「そんなに鳴き立てるのかい」
「なに犬はうるさくも何ともないさ。第一僕はぐうぐう寝《ね》てしまうから、いつどんなに吠《ほ》えるのか全く知らんくらいさ。しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を択《えら》んで来るから面倒だね」
「なるほどいかに婆さんでも君の寝ている時をよって御気を御つけ遊ばせとも云うまい」
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