いたん》の至《いたり》に堪《た》えんくらいのものでげす。何も日本固有の奇術が現に伝《つたわ》っているのに、一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう。今の日本人はちと狸を軽蔑《けいべつ》し過ぎるように思われやすからちょっと全国の狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょう」
「いやに理窟《りくつ》を云う狸だぜ」と源さんが云うと、松さんは本を伏せて「全く狸の言う通《とおり》だよ、昔だって今だって、こっちがしっかりしていりゃ婆化されるなんて事はねえんだからな」としきりに狸の議論を弁護している。して見ると昨夜《ゆうべ》は全く狸に致された訳《わけ》かなと、一人で愛想《あいそ》をつかしながら床屋を出る。
 台町の吾家《わがや》に着いたのは十時頃であったろう。門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子《こうし》の隙《すき》から女の笑い声が洩《も》れる。ベルを鳴らして沓脱《くつぬぎ》に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。
「あなた来ていたのですか」
「ええ、お帰りになってから、考えたら何だか様子が変だったから、すぐ
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