いてくれれば宜《よ》いがと御母さんの顔を見て息を呑み込む。
「ええ悪いでしょう、昨日《きのう》は大変降りましたからね。さぞ御困りでしたろう」これでは少々|見当《けんとう》が違う。御母さんのようすを見ると何だか驚いているようだが、別に心配そうにも見えない。余は何となく落ちついて来る。
「なかなか悪い道です」とハンケチを出して汗を拭《ふ》いたが、やはり気掛りだから「あの露子さんは――」と聞いて見た。
「今顔を洗っています、昨夕《ゆうべ》中央会堂の慈善音楽会とかに行って遅く帰ったものですから、つい寝坊をしましてね」
「インフルエンザは?」
「ええありがとう、もうさっぱり……」
「何ともないんですか」
「ええ風邪《かぜ》はとっくに癒《なお》りました」
 寒からぬ春風に、濛々《もうもう》たる小雨《こさめ》の吹き払われて蒼空《あおぞら》の底まで見える心地である。日本一の御機嫌にて候《そろ》と云う文句がどこかに書いてあったようだが、こんな気分を云うのではないかと、昨夕の気味の悪かったのに引き換《か》えて今の胸の中《うち》が一層朗かになる。なぜあんな事を苦にしたろう、自分ながら愚《ぐ》の至りだと悟って
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