行ったぎり、つい取ってくるのを忘れたと云う。靴は昨夜《ゆうべ》の雨でとうてい穿《は》けそうにない。構うものかと薩摩下駄《さつまげた》を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳《か》けつける。門は開《あ》いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総《しもうさ》生れの頬《ほっ》ペタの赤い下女が俎《まないた》の上で糠味噌《ぬかみそ》から出し立ての細根大根《ほそねだいこん》を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷《たすき》を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓《らち》があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見ると御母《おっか》さんが、今起き立の顔をして叮嚀《ていねい》に如鱗木《じょりんもく》の長火鉢を拭《ふ》いている。
「あら靖雄《やすお》さん!」と布巾《ふきん》を持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さん[#「あら靖雄さん」に傍点]でも埓《らち》があかん。
「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。
 犬の遠吠が泥棒のせいときまるくらいなら、ことによると病気も癒《なお》っているかも知れない。癒って
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