さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促《うなが》す。余は化石のごとく茫然《ぼうぜん》と立っている。
「いやこれは夜中《やちゅう》はなはだ失礼で……実は近頃この界隈《かいわい》が非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排《あんばい》でしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」
 余はようやくほっと息をつく。咽喉《のど》に痞《つか》えている鉛の丸《たま》が下りたような気持ちがする。
「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難に罹《かか》った覚はないようです」
「それなら宜《よろ》しゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うものか賊がこの辺《へん》ばかり徘徊《はいかい》しますんで」
「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。
 雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄《あしだ》をと云うと歯入屋へ持って
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