ん、どうせ来るなら早く来れば好《よ》い、来ないか知らんと寝返りを打つ。寒いとは云え四月と云う時節に、厚夜着《あつよぎ》を二枚も重ねて掛けているから、ただでさえ寝苦しいほど暑い訳であるが、手足と胸の中《うち》は全く血の通わぬように重く冷たい。手で身のうちを撫《な》でて見ると膏《あぶら》と汗で湿《しめ》っている。皮膚の上に冷たい指が触《さわ》るのが、青大将にでも這《は》われるように厭な気持である。ことによると今夜のうちに使でも来るかも知れん。
突然何者か表の雨戸を破《わ》れるほど叩《たた》く。そら来たと心臓が飛び上って肋《あばら》の四枚目を蹴《け》る。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。
「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」
婆
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