ら軒を繞《めぐ》る雨の響に和して、いずくよりともなく何物か地を這《は》うて唸《うな》り廻るような声が聞える。
「ああ、あれで御座います」と婆さんが瞳《ひとみ》を据《す》えて小声で云う。なるほど陰気な声である。今夜はここへ寝る事にきめる。
余は例のごとく蒲団《ふとん》の中へもぐり込んだがこの唸り声が気になって瞼《まぶた》さえ合わせる事が出来ない。
普通犬の鳴き声というものは、後も先も鉈刀《なた》で打《ぶ》ち切った薪雑木《まきざつぼう》を長く継《つ》いだ直線的の声である。今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作《むぞうさ》の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、丸みを帯びている。蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心《とうしん》の花と漸次《ぜんじ》に消えて行く。どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微《かす》かに響くと思う間《ま》に、近づけば軒端《のきば》を洩《も》れて、枕に塞《ふさ》ぐ耳にも薄《せま》る。ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連《つら》ねて家の周囲を二三度|繞《めぐ》ると、いつしかその音がワ
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