ワワワに変化する拍子、疾《と》き風に吹き除《の》けられて遥《はる》か向うに尻尾《しっぽ》はンンンと化して闇の世界に入《い》る。陽気な声を無理に圧迫して陰欝《いんうつ》にしたのがこの遠吠である。躁狂《そうきょう》な響を権柄《けんぺい》ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層|厭《いや》である、聞き苦しい。余は夜着《よぎ》の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。
しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半《やはん》の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家《わがや》が海の底へ沈んだと思うくらい静かになる。静まらぬは吾心のみである。吾心のみはこの静かな中から何事かを予期しつつある。されどもその何事なるかは寸分《すんぶん》の観念だにない。性《しょう》の知れぬ者がこの闇の世からちょっと顔を出しはせまいかという掛念《けねん》が猛烈に神経を鼓舞《こぶ》するのみである。今出るか、今出るかと考えている。髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむち
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