》へ飛び込んだのは十二時近くであろう。三分心《さんぶしん》の薄暗いランプを片手に奥から駆け出して来た婆さんが頓狂《とんきょう》な声を張り上げて「旦那様! どうなさいました」と云う。見ると婆さんは蒼《あお》い顔をしている。
「婆さん! どうかしたか」と余も大きな声を出す。婆さんも余から何か聞くのが怖《おそろ》しく、余は婆さんから何か聞くのが怖しいので御互にどうかしたかと問い掛けながら、その返答は両方とも云わずに双方とも暫時《ざんじ》睨《にら》み合っている。
「水が――水が垂れます」これは婆さんの注意である。なるほど充分に雨を含んだ外套《がいとう》の裾《すそ》と、中折帽の庇《ひさし》から用捨なく冷たい点滴《てんてき》が畳の上に垂れる。折目《おれめ》をつまんで抛《ほう》り出すと、婆さんの膝の傍《そば》に白繻子《しろじゅす》の裏を天井に向けて帽が転《ころ》がる。灰色のチェスターフィールドを脱いで、一振り振って投げた時はいつもよりよほど重く感じた。日本服に着換えて、身顫《みぶる》いをしてようやくわれに帰った頃を見計《みはから》って婆さんはまた「どうなさいました」と尋ねる。今度は先方も少しは落つい
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