細君をとっさの際に思い出さしめたのである。――同時に火の消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈出《ねんしゅつ》した。額《ひたい》を撫《な》でると膏汗《あぶらあせ》と雨でずるずるする。余は夢中であるく。
坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上《つまあが》りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほどに濘《ぬか》る。暗さは暗し、靴は踵《かかと》を深く土に据えつけて容易《たやす》くは動かぬ。曲りくねってむやみやたらに行くと枸杞垣《くこがき》とも覚しきものの鋭どく折れ曲る角《かど》でぱたりとまた赤い火に出《で》くわした。見ると巡査である。巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当てて「悪るいから御気を付けなさい」と言い棄てて擦《す》れ違った。よく注意したまえと云った津田君の言葉と、悪いから御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うとたちまち胸が鉛《なまり》のように重くなる。あの火だ、あの火だと余は息を切らして馳《か》け上る。
どこをどう歩行《ある》いたとも知らず流星のごとく吾家《わがや
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