の心を動かすとは今までつい気がつかなんだ。気がついて見ると立っても歩行いても心配になる、このようすでは家《うち》へ帰って蒲団《ふとん》の中へ這入《はい》ってもやはり心配になるかも知れぬ。なぜ今までは平気で暮していたのであろう。考えて見ると学校にいた時分は試験とベースボールで死ぬと云う事を考える暇がなかった。卒業してからはペンとインキとそれから月給の足らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える暇がなかった。人間は死ぬ者だとはいかに呑気《のんき》な余《よ》でも承知しておったに相違ないが、実際余も死ぬものだと感じたのは今夜が生れて以来始めてである。夜と云うむやみに大きな黒い者が、歩行いても立っても上下四方から閉《と》じ込めていて、その中に余と云う形体を溶《と》かし込まぬと承知せぬぞと逼《せま》るように感ぜらるる。余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭《いや》だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚《さと》ったように思う。雨はだんだん密《みつ》になるので外套《がいとう
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