いで行く。闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送って振り返った時、また行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜が更《ふ》けているので存外反響が烈《はげ》しい。
「昨日《きのう》生れて今日《きょう》死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方がない」と一人が答える。二人の黒い影がまた余の傍《そば》を掠《かす》めて見る間《ま》に闇の中へもぐり込む。棺の後《あと》を追って足早に刻《きざ》む下駄の音のみが雨に響く。
「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と余は胸の中《うち》で繰り返して見た。昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、昨日病気に罹《かか》って今日死ぬ者は固《もと》よりあるべきはずである。二十六年も娑婆《しゃば》の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具《そな》えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上《のぼ》りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。――何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立っているのは、ことによると死にに立っているのかも知れない。――また歩行《ある》き出す。死ぬと云う事がこれほど人
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