を遺失して生きたものとは認められぬ。余が通り抜ける極楽水《ごくらくみず》の貧民は打てども蘇《よ》み返《がえ》る景色《けしき》なきまでに静かである。――実際死んでいるのだろう。ポツリポツリと雨はようやく濃《こま》かになる。傘《かさ》を持って来なかった、ことによると帰るまでにはずぶ濡《ぬれ》になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭々《しょうしょう》と降る、容易に晴れそうにもない。
五六間先にたちまち白い者が見える。往来《おうらい》の真中に立ち留って、首を延《のば》してこの白い者をすかしているうちに、白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる。半分《はんぶん》と立たぬ間《ま》に余の右側を掠《かす》めるごとく過ぎ去ったのを見ると――蜜柑箱《みかんばこ》のようなものに白い巾《きれ》をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を通して前後から担《かつ》いで行くのである。おおかた葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子《ちのみご》に違いない。黒い男は互に言葉も交えずに黙ってこの棺桶《かんおけ》を担いで行く。天下に夜中《やちゅう》棺桶を担《にな》うほど、当然の出来事はあるまいと、思い切った調子でコツコツ担
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