》が水を含んで触《さわ》ると、濡れた海綿《かいめん》を圧《お》すようにじくじくする。
 竹早町を横ぎって切支丹坂《きりしたんざか》へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽《こっけい》だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多《めった》に下りると滑《すべ》って尻餅《しりもち》を搗《つ》く。険呑《けんのん》だと八合目あたりから下を見て覘《ねらい》をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎《ふるえのき》が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽《おお》うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善《い》い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音がしきりにする。この暗闇《まっくら》な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷
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