《てんまつ》が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に懐中していてね」
「うん」
「ある朝例のごとくそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。するとその鏡の奥に写ったのが――いつもの通り髭《ひげ》だらけな垢《あか》染《じ》みた顔だろうと思うと――不思議だねえ――実に妙な事があるじゃないか」
「どうしたい」
「青白い細君の病気に窶《やつ》れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の通知の行った三週間も前なんだぜ。嘘をつくったって嘘にする材料のない時ださ。それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか。死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説|染《じ》みた呑気《のんき》な法螺《ほら》を書いて国元へ送るものは一人もない訳ださ」
「そりゃ無い」と云ったが実はまだ半信半疑である。半信半疑ではあるが何だか物凄《ものすご》い、気味の悪い、一言《いちごん》にして云うと法学士に似合わしからざる感じが起こった。
「もっとも話しはしなかったそう
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