るまい。後学のため話だけでも拝聴して帰ろうとようやく肚《はら》の中で決心した。見ると津田君も話の続きが話したいと云う風である。話したい、聞きたいと事がきまれば訳はない。漢水は依然として西南に流れるのが千古の法則だ。
「だんだん聞き糺《ただ》して見ると、その妻と云うのが夫《おっと》の出征前に誓ったのだそうだ」
「何を?」
「もし万一御留守中に病気で死ぬような事がありましてもただは死にませんて」
「へえ」
「必《かなら》ず魂魄《こんぱく》だけは御傍《おそば》へ行って、もう一遍御目に懸《かか》りますと云った時に、亭主は軍人で磊落《らいらく》な気性《きしょう》だから笑いながら、よろしい、いつでも来なさい、戦《いく》さの見物をさしてやるからと云ったぎり満州へ渡ったんだがね。その後そんな事はまるで忘れてしまっていっこう気にも掛けなかったそうだ」
「そうだろう、僕なんざ軍《いく》さに出なくっても忘れてしまわあ」
「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」
「ふん。君は大変詳しく調べているな」
「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末
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