だ。黙って鏡の裏《うち》から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが、その時夫の胸の中《うち》に訣別《けつべつ》の時、細君の言った言葉が渦《うず》のように忽然《こつぜん》と湧《わ》いて出たと云うんだが、こりゃそうだろう。焼小手《やきごて》で脳味噌をじゅっと焚《や》かれたような心持だと手紙に書いてあるよ」
「妙な事があるものだな」手紙の文句まで引用されると是非共信じなければならぬようになる。何となく物騒《ぶっそう》な気合《けわい》である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相違ない。
「それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫《おっと》が鏡を眺《なが》めたのが同日同刻になっている」
「いよいよ不思議だな」この時《とき》に至っては真面目に不思議と思い出した。「しかしそんな事が有り得る事かな」と念のため津田君に聞いて見る。
「ここにもそんな事を書いた本があるがね」と津田君は先刻《さっき》の書物を机の上から取り卸しながら「近頃じゃ、有り得ると云う事だけは証明されそうだよ」と落ちつき払って答える。法学士の知らぬ間《ま》に心理学者の方では幽霊を再興しているなと思うと幽
前へ 次へ
全51ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング