りに上りますなんて誓《ちかい》は立てないのだからその方は大丈夫だろう」と洒落《しゃれ》て見たが心の中《うち》は何となく不愉快であった。時計を出して見ると十一時に近い。これは大変。うちではさぞ婆さんが犬の遠吠《とおぼえ》を苦にしているだろうと思うと、一刻も早く帰りたくなる。「いずれその内婆さんに近づきになりに行くよ」と云う津田君に「御馳走をするから是非来たまえ」と云いながら白山御殿町の下宿を出る。
 我からと惜気《おしげ》もなく咲いた彼岸桜《ひがんざくら》に、いよいよ春が来たなと浮かれ出したのもわずか二三日《にさんち》の間である。今では桜自身さえ早待《はやま》ったと後悔しているだろう。生温《なまぬる》く帽を吹く風に、額際《ひたいぎわ》から煮染《にじ》み出す膏《あぶら》と、粘《ねば》り着く砂埃《すなほこ》りとをいっしょに拭《ぬぐ》い去った一昨日《おととい》の事を思うと、まるで去年のような心持ちがする。それほどきのうから寒くなった。今夜は一層である。冴返《さえかえ》るなどと云う時節でもないに馬鹿馬鹿《ばかばか》しいと外套《がいとう》の襟《えり》を立てて盲唖《もうあ》学校の前から植物園の横をだらだらと下りた時、どこで撞《つ》く鐘だか夜の中に波を描いて、静かな空をうねりながら来る。十一時だなと思う。――時の鐘は誰が発明したものか知らん。今までは気がつかなかったが注意して聴いて見ると妙な響である。一つ音が粘《ねば》り強い餅《もち》を引き千切《ちぎ》ったように幾つにも割れてくる。割れたから縁が絶えたかと思うと細くなって、次の音に繋《つな》がる。繋がって太くなったかと思うと、また筆の穂のように自然と細くなる。――あの音はいやに伸びたり縮んだりするなと考えながら歩行《ある》くと、自分の心臓の鼓動も鐘の波のうねりと共に伸びたり縮んだりするように感ぜられる。しまいには鐘の音にわが呼吸を合せたくなる。今夜はどうしても法学士らしくないと、足早に交番の角を曲るとき、冷たい風に誘われてポツリと大粒の雨が顔にあたる。
 極楽水[#「極楽水」に傍点]はいやに陰気なところである。近頃は両側へ長家《ながや》が建ったので昔ほど淋《さみ》しくはないが、その長家が左右共|闃然《げきぜん》として空家《あきや》のように見えるのは余り気持のいいものではない。貧民に活動はつき物である。働いておらぬ貧民は、貧民たる本性を遺失して生きたものとは認められぬ。余が通り抜ける極楽水《ごくらくみず》の貧民は打てども蘇《よ》み返《がえ》る景色《けしき》なきまでに静かである。――実際死んでいるのだろう。ポツリポツリと雨はようやく濃《こま》かになる。傘《かさ》を持って来なかった、ことによると帰るまでにはずぶ濡《ぬれ》になるわいと舌打をしながら空を仰ぐ。雨は闇の底から蕭々《しょうしょう》と降る、容易に晴れそうにもない。
 五六間先にたちまち白い者が見える。往来《おうらい》の真中に立ち留って、首を延《のば》してこの白い者をすかしているうちに、白い者は容赦もなく余の方へ進んでくる。半分《はんぶん》と立たぬ間《ま》に余の右側を掠《かす》めるごとく過ぎ去ったのを見ると――蜜柑箱《みかんばこ》のようなものに白い巾《きれ》をかけて、黒い着物をきた男が二人、棒を通して前後から担《かつ》いで行くのである。おおかた葬式か焼場であろう。箱の中のは乳飲子《ちのみご》に違いない。黒い男は互に言葉も交えずに黙ってこの棺桶《かんおけ》を担いで行く。天下に夜中《やちゅう》棺桶を担《にな》うほど、当然の出来事はあるまいと、思い切った調子でコツコツ担いで行く。闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送って振り返った時、また行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜が更《ふ》けているので存外反響が烈《はげ》しい。
「昨日《きのう》生れて今日《きょう》死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方がない」と一人が答える。二人の黒い影がまた余の傍《そば》を掠《かす》めて見る間《ま》に闇の中へもぐり込む。棺の後《あと》を追って足早に刻《きざ》む下駄の音のみが雨に響く。
「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と余は胸の中《うち》で繰り返して見た。昨日生まれて今日死ぬ者さえあるなら、昨日病気に罹《かか》って今日死ぬ者は固《もと》よりあるべきはずである。二十六年も娑婆《しゃば》の気を吸ったものは病気に罹らんでも充分死ぬ資格を具《そな》えている。こうやって極楽水を四月三日の夜の十一時に上《のぼ》りつつあるのは、ことによると死にに上ってるのかも知れない。――何だか上りたくない。しばらく坂の中途で立って見る。しかし立っているのは、ことによると死にに立っているのかも知れない。――また歩行《ある》き出す。死ぬと云う事がこれほど人
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