るまい。後学のため話だけでも拝聴して帰ろうとようやく肚《はら》の中で決心した。見ると津田君も話の続きが話したいと云う風である。話したい、聞きたいと事がきまれば訳はない。漢水は依然として西南に流れるのが千古の法則だ。
「だんだん聞き糺《ただ》して見ると、その妻と云うのが夫《おっと》の出征前に誓ったのだそうだ」
「何を?」
「もし万一御留守中に病気で死ぬような事がありましてもただは死にませんて」
「へえ」
「必《かなら》ず魂魄《こんぱく》だけは御傍《おそば》へ行って、もう一遍御目に懸《かか》りますと云った時に、亭主は軍人で磊落《らいらく》な気性《きしょう》だから笑いながら、よろしい、いつでも来なさい、戦《いく》さの見物をさしてやるからと云ったぎり満州へ渡ったんだがね。その後そんな事はまるで忘れてしまっていっこう気にも掛けなかったそうだ」
「そうだろう、僕なんざ軍《いく》さに出なくっても忘れてしまわあ」
「それでその男が出立をする時細君が色々手伝って手荷物などを買ってやった中に、懐中持の小さい鏡があったそうだ」
「ふん。君は大変詳しく調べているな」
「なにあとで戦地から手紙が来たのでその顛末《てんまつ》が明瞭になった訳だが。――その鏡を先生常に懐中していてね」
「うん」
「ある朝例のごとくそれを取り出して何心なく見たんだそうだ。するとその鏡の奥に写ったのが――いつもの通り髭《ひげ》だらけな垢《あか》染《じ》みた顔だろうと思うと――不思議だねえ――実に妙な事があるじゃないか」
「どうしたい」
「青白い細君の病気に窶《やつ》れた姿がスーとあらわれたと云うんだがね――いえそれはちょっと信じられんのさ、誰に聞かしても嘘だろうと云うさ。現に僕などもその手紙を見るまでは信じない一人であったのさ。しかし向うで手紙を出したのは無論こちらから死去の通知の行った三週間も前なんだぜ。嘘をつくったって嘘にする材料のない時ださ。それにそんな嘘をつく必要がないだろうじゃないか。死ぬか生きるかと云う戦争中にこんな小説|染《じ》みた呑気《のんき》な法螺《ほら》を書いて国元へ送るものは一人もない訳ださ」
「そりゃ無い」と云ったが実はまだ半信半疑である。半信半疑ではあるが何だか物凄《ものすご》い、気味の悪い、一言《いちごん》にして云うと法学士に似合わしからざる感じが起こった。
「もっとも話しはしなかったそうだ。黙って鏡の裏《うち》から夫の顔をしけじけ見詰めたぎりだそうだが、その時夫の胸の中《うち》に訣別《けつべつ》の時、細君の言った言葉が渦《うず》のように忽然《こつぜん》と湧《わ》いて出たと云うんだが、こりゃそうだろう。焼小手《やきごて》で脳味噌をじゅっと焚《や》かれたような心持だと手紙に書いてあるよ」
「妙な事があるものだな」手紙の文句まで引用されると是非共信じなければならぬようになる。何となく物騒《ぶっそう》な気合《けわい》である。この時津田君がもしワッとでも叫んだら余はきっと飛び上ったに相違ない。
「それで時間を調べて見ると細君が息を引き取ったのと夫《おっと》が鏡を眺《なが》めたのが同日同刻になっている」
「いよいよ不思議だな」この時《とき》に至っては真面目に不思議と思い出した。「しかしそんな事が有り得る事かな」と念のため津田君に聞いて見る。
「ここにもそんな事を書いた本があるがね」と津田君は先刻《さっき》の書物を机の上から取り卸しながら「近頃じゃ、有り得ると云う事だけは証明されそうだよ」と落ちつき払って答える。法学士の知らぬ間《ま》に心理学者の方では幽霊を再興しているなと思うと幽霊もいよいよ馬鹿に出来なくなる。知らぬ事には口が出せぬ、知らぬは無能力である。幽霊に関しては法学士は文学士に盲従しなければならぬと思う。
「遠い距離において、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと……」
「僕は法学士だから、そんな事を聞いても分らん。要するにそう云う事は理論上あり得るんだね」余のごとき頭脳不透明なるものは理窟《りくつ》を承《うけたま》わるより結論だけ呑み込んで置く方が簡便である。
「ああ、つまりそこへ帰着するのさ。それにこの本にも例が沢山あるがね、その内でロード・ブローアムの見た幽霊などは今の話しとまるで同じ場合に属するものだ。なかなか面白い。君ブローアムは知っているだろう」
「ブローアム? ブローアムたなんだい」
「英国の文学者さ」
「道理で知らんと思った。僕は自慢じゃないが文学者の名なんかシェクスピヤとミルトンとそのほかに二三人しか知らんのだ」
 津田君はこんな人間と学問上の議論をするのは無駄だと思ったか「それだから宇野の御嬢さんもよく注意したまいと云う事さ」と話を元へ戻す。
「うん注意はさせるよ。しかし万一の事がありましたらきっと御目に懸
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