切れば善《よ》かったと思う。津田君はこの笑を何と聞いたか知らん。再び口を開《ひら》いた時は依然として以前の調子である。
「いや実はこう云う話がある。ついこの間の事だが、僕の親戚の者がやはりインフルエンザに罹《かか》ってね。別段の事はないと思って好加減《いいかげん》にして置いたら、一週間目から肺炎に変じて、とうとう一箇月立たない内に死んでしまった。その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性《たち》が悪い、じきに肺炎になるから用心をせんといかんと云ったが――実に夢のようさ。可哀《かわい》そうでね」と言い掛けて厭《いや》な寒い顔をする。
「へえ、それは飛んだ事だった。どうしてまた肺炎などに変じたのだ」と心配だから参考のため聞いて置く気になる。
「どうしてって、別段の事情もないのだが――それだから君のも注意せんといかんと云うのさ」
「本当だね」と余は満腹の真面目《まじめ》をこの四文字に籠《こ》めて、津田君の眼の中を熱心に覗《のぞ》き込んだ。津田君はまだ寒い顔をしている。
「いやだいやだ、考えてもいやだ。二十二や三で死んでは実につまらんからね。しかも所天《おっと》は戦争に行ってるんだから――」
「ふん、女か? そりゃ気の毒だなあ。軍人だね」
「うん所天は陸軍中尉さ。結婚してまだ一年にならんのさ。僕は通夜《つや》にも行き葬式の供にも立ったが――その夫人の御母《おっか》さんが泣いてね――」
「泣くだろう、誰だって泣かあ」
「ちょうど葬式の当日は雪がちらちら降って寒い日だったが、御経が済んでいよいよ棺を埋《う》める段になると、御母さんが穴の傍《そば》へしゃがんだぎり動かない。雪が飛んで頭の上が斑《まだら》になるから、僕が蝙蝠傘《こうもり》をさし懸《か》けてやった」
「それは感心だ、君にも似合わない優しい事をしたものだ」
「だって気の毒で見ていられないもの」
「そうだろう」と余はまた法眼元信《ほうげんもとのぶ》の馬を見る。自分ながらこの時は相手の寒い顔が伝染しているに相違ないと思った。咄嗟《とっさ》の間に死んだ女の所天の事が聞いて見たくなる。
「それでその所天の方は無事なのかね」
「所天《おっと》は黒木軍についているんだが、この方はまあ幸《さいわい》に怪我もしないようだ」
「細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろう」
「いや、それについて不思議な話があるんだがね、日本から手紙の届かない先に細君がちゃんと亭主の所へ行っているんだ」
「行ってるとは?」
「逢《あ》いに行ってるんだ」
「どうして?」
「どうしてって、逢いに行ったのさ」
「逢いに行くにも何にも当人死んでるんじゃないか」
「死んで逢いに行ったのさ」
「馬鹿あ云ってら、いくら亭主が恋しいったって、そんな芸が誰に出来るもんか。まるで林屋正三の怪談だ」
「いや実際行ったんだから、しようがない」と津田君は教育ある人にも似合ず、頑固《がんこ》に愚《ぐ》な事を主張する。
「しようがないって――何だか見て来たような事を云うぜ。おかしいな、君本当にそんな事を話してるのかい」
「無論本当さ」
「こりゃ驚いた。まるで僕のうちの婆さんのようだ」
「婆さんでも爺さんでも事実だから仕方がない」と津田君はいよいよ躍起《やっき》になる。どうも余にからかっているようにも見えない。はてな真面目《まじめ》で云っているとすれば何か曰《いわ》くのある事だろう。津田君と余は大学へ入ってから科は違うたが、高等学校では同じ組にいた事もある。その時余は大概四十何人の席末を汚すのが例であったのに、先生は※[#「山/歸」、第3水準1-47-93]然《きぜん》として常に二三番を下《くだ》らなかったところをもって見ると、頭脳は余よりも三十五六枚|方《がた》明晰《めいせき》に相違ない。その津田君が躍起《やっき》になるまで弁護するのだから満更《まんざら》の出鱈目《でたらめ》ではあるまい。余は法学士である、刻下の事件をありのままに見て常識で捌《さば》いて行くよりほかに思慮を廻《めぐ》らすのは能《あた》わざるよりもむしろ好まざるところである。幽霊だ、祟《たたり》だ、因縁《いんねん》だなどと雲を攫《つか》むような事を考えるのは一番|嫌《きらい》である。が津田君の頭脳には少々恐れ入っている。その恐れ入ってる先生が真面目に幽霊談をするとなると、余もこの問題に対する態度を義理にも改めたくなる。実を云うと幽霊と雲助《くもすけ》は維新《いしん》以来永久廃業した者とのみ信じていたのである。しかるに先刻《さっき》から津田君の容子《ようす》を見ると、何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間《ま》に再興されたようにもある。先刻《さっき》机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する。とにかく損はない事だ。忙がしい余に取ってはこんな機会はまたとあ
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