に若い女があるとすれば近い内貰うはずの宇野の娘に相違ないと自分で見解を下《くだ》して独りで心配しているのさ」
「だって、まだ君の所へは来んのだろう」
「来んうちから心配をするから取越《とりこし》苦労さ」
「何だか洒落《しゃれ》か真面目か分らなくなって来たぜ」
「まるで御話にも何もなりゃしない。ところで近頃僕の家の近辺で野良犬《のらいぬ》が遠吠《とおぼえ》をやり出したんだ。……」
「犬の遠吠と婆さんとは何か関係があるのかい。僕には聯想さえ浮ばんが」と津田君はいかに得意の心理学でもこれは説明が出来《でき》悪《にく》いとちょっと眉《まゆ》を寄せる。余はわざと落ちつき払って御茶を一杯と云う。相馬焼の茶碗は安くて俗な者である。もとは貧乏士族が内職に焼いたとさえ伝聞している。津田君が三十匁の出殻《でがら》を浪々《なみなみ》この安茶碗についでくれた時余は何となく厭《いや》な心持がして飲む気がしなくなった。茶碗の底を見ると狩野法眼《かのうほうげん》元信流《もとのぶりゅう》の馬が勢よく跳《は》ねている。安いに似合わず活溌《かっぱつ》な馬だと感心はしたが、馬に感心したからと云って飲みたくない茶を飲む義理もあるまいと思って茶碗は手に取らなかった。
「さあ飲みたまえ」と津田君が促《うな》がす。
「この馬はなかなか勢がいい。あの尻尾《しっぽ》を振って鬣《たてがみ》を乱している所は野馬《のんま》だね」と茶を飲まない代りに馬を賞《ほ》めてやった。
「冗談《じょうだん》じゃない、婆さんが急に犬になるかと、思うと、犬が急に馬になるのは烈《はげ》しい。それからどうしたんだ」としきりに後《あと》を聞きたがる。茶は飲まんでも差《さ》し支《つか》えない事となる。
「婆さんが云うには、あの鳴き声はただの鳴き声ではない、何でもこの辺に変《へん》があるに相違ないから用心しなくてはいかんと云うのさ。しかし用心をしろと云ったって別段用心の仕様《しよう》もないから打ち遣《や》って置くから構わないが、うるさいには閉口だ」
「そんなに鳴き立てるのかい」
「なに犬はうるさくも何ともないさ。第一僕はぐうぐう寝《ね》てしまうから、いつどんなに吠《ほ》えるのか全く知らんくらいさ。しかし婆さんの訴えは僕の起きている時を択《えら》んで来るから面倒だね」
「なるほどいかに婆さんでも君の寝ている時をよって御気を御つけ遊ばせとも云うまい」
「ところへもって来て僕の未来の細君が風邪《かぜ》を引いたんだね。ちょうど婆さんの御誂《おあつら》え通りに事件が輻輳《ふくそう》したからたまらない」
「それでも宇野の御嬢さんはまだ四谷にいるんだから心配せんでもよさそうなものだ」
「それを心配するから迷信|婆々《ばばあ》さ、あなたが御移りにならんと御嬢様の御病気がはやく御全快になりませんから是非この月|中《じゅう》に方角のいい所へ御転宅遊ばせと云う訳さ。飛んだ預言者《よげんしゃ》に捕《つら》まって、大迷惑だ」
「移るのもいいかも知れんよ」
「馬鹿あ言ってら、この間越したばかりだね。そんなにたびたび引越しをしたら身代限《しんだいかぎり》をするばかりだ」
「しかし病人は大丈夫かい」
「君まで妙な事を言うぜ。少々伝通院の坊主にかぶれて来たんじゃないか。そんなに人を威嚇《おど》かすもんじゃない」
「威嚇《おど》かすんじゃない、大丈夫かと聞くんだ。これでも君の妻君の身の上を心配したつもりなんだよ」
「大丈夫にきまってるさ。咳嗽《せき》は少し出るがインフルエンザなんだもの」
「インフルエンザ?」と津田君は突然余を驚かすほどな大きな声を出す。今度は本当に威嚇《おど》かされて、無言のまま津田君の顔を見詰める。
「よく注意したまえ」と二句目は低い声で云った。初めの大きな声に反してこの低い声が耳の底をつき抜けて頭の中へしんと浸《し》み込んだような気持がする。なぜだか分らない。細い針は根まで這入《はい》る、低くても透《とお》る声は骨に答えるのであろう。碧瑠璃《へきるり》の大空に瞳《ひとみ》ほどな黒き点をはたと打たれたような心持ちである。消えて失《う》せるか、溶けて流れるか、武庫山《むこやま》卸《おろ》しにならぬとも限らぬ。この瞳ほどな点の運命はこれから津田君の説明で決せられるのである。余は覚えず相馬焼の茶碗を取り上げて冷たき茶を一時《いちじ》にぐっと飲み干した。
「注意せんといかんよ」と津田君は再び同じ事を同じ調子で繰り返す。瞳ほどな点が一段の黒味を増す。しかし流れるとも広がるとも片づかぬ。
「縁喜《えんぎ》でもない、いやに人を驚かせるぜ。ワハハハハハ」と無理に大きな声で笑って見せたが、腑《ふ》の抜けた勢のない声が無意味に響くので、我ながら気がついて中途でぴたりとやめた。やめると同時にこの笑がいよいよ不自然に聞かれたのでやはりしまいまで笑い
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング