琴のそら音
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)洋灯《ランプ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)少々|肥《ふと》った
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山/歸」、第3水準1−47−93]
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「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋灯《ランプ》の穂を細めながら尋ねた。
津田君がこう云《い》った時、余《よ》ははち切れて膝頭《ひざがしら》の出そうなズボンの上で、相馬焼《そうまやき》の茶碗《ちゃわん》の糸底《いとそこ》を三本指でぐるぐる廻しながら考えた。なるほど珍らしいに相違ない、この正月に顔を合せたぎり、花盛りの今日《きょう》まで津田君の下宿を訪問した事はない。
「来《き》よう来《き》ようと思いながら、つい忙がしいものだから――」
「そりゃあ、忙がしいだろう、何と云っても学校にいたうちとは違うからね、この頃でもやはり午後六時までかい」
「まあ大概そのくらいさ、家《うち》へ帰って飯を食うとそれなり寝てしまう。勉強どころか湯にも碌々《ろくろく》這入《はい》らないくらいだ」と余は茶碗を畳の上へ置いて、卒業が恨《うら》めしいと云う顔をして見せる。
津田君はこの一言《いちごん》に少々同情の念を起したと見えて「なるほど少し瘠《や》せたようだぜ、よほど苦しいのだろう」と云う。気のせいか当人は学士になってから少々|肥《ふと》ったように見えるのが癪《しゃく》に障《さわ》る。机の上に何だか面白そうな本を広げて右の頁《ページ》の上に鉛筆で註が入れてある。こんな閑《ひま》があるかと思うと羨《うらや》ましくもあり、忌々《いまいま》しくもあり、同時に吾身が恨《うら》めしくなる。
「君は不相変《あいかわらず》勉強で結構だ、その読みかけてある本は何かね。ノートなどを入れてだいぶ叮嚀《ていねい》に調べているじゃないか」
「これか、なにこれは幽霊の本さ」と津田君はすこぶる平気な顔をしている。この忙《いそが》しい世の中に、流行《はや》りもせぬ幽霊の書物を澄《す》まして愛読するなどというのは、呑気《のんき》を通り越して贅沢《ぜいたく》の沙汰だと思う。
「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」
「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯《しんじょたい》の味は。一戸を構えると自《おのず》から主人らしい心持がするかね」と津田君は幽霊を研究するだけあって心理作用に立ち入った質問をする。
「あんまり主人らしい心持もしないさ。やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。あれでも万事整頓していたら旦那《だんな》の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮《しんちゅう》の薬缶《やかん》で湯を沸《わ》かしたり、ブリッキの金盥《かなだらい》で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。
「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。所有と云う事と愛惜《あいせき》という事は大抵の場合において伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる[#「くれる」に傍点]者である。
「俺の家《うち》だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家《うち》だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口《かどぐち》にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面倒が殖《ふ》えるばかりだ」と深くも考えずに浮気《うわき》の不平だけを発表して相手の気色《けしき》を窺《うかが》う。向うが少しでも同意したら、すぐ不平の後陣《ごじん》を繰《く》り出すつもりである。
「なるほど真理はその辺にあるかも知れん。下宿を続けている僕と、新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違うからな」と言語はすこぶるむずかしいがとにかく余の説に賛成だけはしてくれる。この模様ならもう少し不平を陳列しても差《さ》し支《つかえ》はない。
「まずうちへ帰ると婆さんが横《よこ》綴《と》じの帳面を持って僕の前へ出てくる。今日《こんにち》は御味噌を三銭、大根を二本、鶉豆《うずらまめ》を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。厄介きわまるのさ」
「厄介きわまるなら廃《よ》せばいいじゃないか」と津田君は下宿人だけあって無雑作《むぞうさ》な事を言
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