の心を動かすとは今までつい気がつかなんだ。気がついて見ると立っても歩行いても心配になる、このようすでは家《うち》へ帰って蒲団《ふとん》の中へ這入《はい》ってもやはり心配になるかも知れぬ。なぜ今までは平気で暮していたのであろう。考えて見ると学校にいた時分は試験とベースボールで死ぬと云う事を考える暇がなかった。卒業してからはペンとインキとそれから月給の足らないのと婆さんの苦情でやはり死ぬと云う事を考える暇がなかった。人間は死ぬ者だとはいかに呑気《のんき》な余《よ》でも承知しておったに相違ないが、実際余も死ぬものだと感じたのは今夜が生れて以来始めてである。夜と云うむやみに大きな黒い者が、歩行いても立っても上下四方から閉《と》じ込めていて、その中に余と云う形体を溶《と》かし込まぬと承知せぬぞと逼《せま》るように感ぜらるる。余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭《いや》だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚《さと》ったように思う。雨はだんだん密《みつ》になるので外套《がいとう》が水を含んで触《さわ》ると、濡れた海綿《かいめん》を圧《お》すようにじくじくする。
竹早町を横ぎって切支丹坂《きりしたんざか》へかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。坂の上へ来た時、ふとせんだってここを通って「日本一急な坂、命の欲しい者は用心じゃ用心じゃ」と書いた張札が土手の横からはすに往来へ差し出ているのを滑稽《こっけい》だと笑った事を思い出す。今夜は笑うどころではない。命の欲しい者は用心じゃと云う文句が聖書にでもある格言のように胸に浮ぶ。坂道は暗い。滅多《めった》に下りると滑《すべ》って尻餅《しりもち》を搗《つ》く。険呑《けんのん》だと八合目あたりから下を見て覘《ねらい》をつける。暗くて何もよく見えぬ。左の土手から古榎《ふるえのき》が無遠慮に枝を突き出して日の目の通わぬほどに坂を蔽《おお》うているから、昼でもこの坂を下りる時は谷の底へ落ちると同様あまり善《い》い心持ではない。榎は見えるかなと顔を上げて見ると、あると思えばあり、無いと思えば無いほどな黒い者に雨の注ぐ音がしきりにする。この暗闇《まっくら》な坂を下りて、細い谷道を伝って、茗荷谷《みょうがだに》を向《むこう》へ上《あが》って七八丁行けば小日向台町《こびなただいまち》の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味がわるい。
茗荷谷の坂の中途に当るくらいな所に赤い鮮《あざや》かな火が見える。前から見えていたのか顔をあげる途端に見えだしたのか判然しないが、とにかく雨を透《すか》してよく見える。あるいは屋敷の門口《もんぐち》に立ててある瓦斯灯《ガスとう》ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆灯籠《ぼんどうろう》の秋風に揺られる具合に動いた。――瓦斯灯ではない。何だろうと見ていると今度はその火が雨と闇の中を波のように縫って上から下へ動いて来る。――これは提灯《ちょうちん》の火に相違ないとようやく判断した時それが不意と消えてしまう。
この火を見た時、余ははっと露子《つゆこ》の事を思い出した。露子は余が未来の細君の名である。未来の細君とこの火とどんな関係があるかは心理学者の津田君にも説明は出来んかも知れぬ。しかし心理学者の説明し得るものでなくては思い出してならぬとも限るまい。この赤い、鮮《あざや》かな、尾の消える縄に似た火は余をしてたしかに余が未来の細君をとっさの際に思い出さしめたのである。――同時に火の消えた瞬間が露子の死を未練もなく拈出《ねんしゅつ》した。額《ひたい》を撫《な》でると膏汗《あぶらあせ》と雨でずるずるする。余は夢中であるく。
坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上《つまあが》りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほどに濘《ぬか》る。暗さは暗し、靴は踵《かかと》を深く土に据えつけて容易《たやす》くは動かぬ。曲りくねってむやみやたらに行くと枸杞垣《くこがき》とも覚しきものの鋭どく折れ曲る角《かど》でぱたりとまた赤い火に出《で》くわした。見ると巡査である。巡査はその赤い火を焼くまでに余の頬に押し当てて「悪るいから御気を付けなさい」と言い棄てて擦《す》れ違った。よく注意したまえと云った津田君の言葉と、悪いから御気をつけなさいと教えた巡査の言葉とは似ているなと思うとたちまち胸が鉛《なまり》のように重くなる。あの火だ、あの火だと余は息を切らして馳《か》け上る。
どこをどう歩行《ある》いたとも知らず流星のごとく吾家《わがや
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