ん、と云う。石に逢《あ》えばかかん、かからんと云う。陰気な音ではない。しかし寒い響である。風は北から吹く。
細い路を窮屈に両側から仕切る家はことごとく黒い。戸は残りなく鎖《とざ》されている。ところどころの軒下に大きな小田原提灯《おだわらぢょうちん》が見える。赤くぜんざいとかいてある。人気《ひとけ》のない軒下にぜんざいはそもそも何を待ちつつ赤く染まっているのかしらん。春寒《はるさむ》の夜《よ》を深み、加茂川《かもがわ》の水さえ死ぬ頃を見計らって桓武天皇《かんむてんのう》の亡魂でも食いに来る気かも知れぬ。
桓武天皇の御宇《ぎょう》に、ぜんざいが軒下に赤く染め抜かれていたかは、わかりやすからぬ歴史上の疑問である。しかし赤いぜんざいと京都とはとうてい離されない。離されない以上は千年の歴史を有する京都に千年の歴史を有するぜんざいが無くてはならぬ。ぜんざいを召したまえる桓武天皇の昔はしらず、余とぜんざいと京都とは有史以前から深い因縁《いんねん》で互に結びつけられている。始めて京都に来たのは十五六年の昔である。その時は正岡子規《まさおかしき》といっしょであった。麩屋町《ふやまち》の柊屋《ひいらぎ
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング