いた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻《ひるが》えして下から豊三郎を見上げた。

     金

 劇烈《げきれつ》な三面記事を、写真版にして引き伸ばしたような小説を、のべつに五六冊読んだら、全く厭《いや》になった。飯を食っていても、生活難が飯といっしょに胃《い》の腑《ふ》まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹がせっぱ詰《つま》って、いかにも苦しい。そこで帽子を被《かぶ》って空谷子《くうこくし》の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者みたような占者《うらないしゃ》みたような、妙な男である。無辺際《むへんざい》の空間には、地球より大きな火事がところどころにあって、その火事の報知が吾々《われわれ》の眼に伝わるには、百年もかかるんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。もっとも神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのはたしかな事実である。
 空谷子は小さな角火鉢《かくひばち》に倚《もた》れて、真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で灰の上へ、しきりに何か書いていた。どうだね、相変らず考え込んでるじゃないか
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