立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は蒼《あお》くむくんでいる。婆さんは腫《は》れぼったい瞼《まぶち》の奥から細い眼を出して、眩《まぼ》しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した。
 三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど藁《わら》で括《くく》って貰って、徳利《とくり》のような花瓶《かびん》へ活《い》けた。行李《こうり》の底から、帆足万里《ほあしばんり》の書いた小さい軸《じく》を出して、壁へ掛けた。これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団《ざぶとん》の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々《とよとよ》と云う声がした。その声が調子と云い、音色《ねいろ》といい、優しい故郷《ふるさと》の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子《しょうじ》をがらりと開けた。すると昨日《きのう》見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額《ひたい》に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きして
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