幹がことごとく光って見える。茸《たけ》の時節である。豊三郎は机の上で今|採《と》ったばかりの茸の香《か》を嗅《か》いだ。そうして、豊《とよ》、豊という母の声を聞いた。その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。――母は五年前に死んでしまった。
 豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻《さっき》見た梧桐《ごとう》の先がまた眸《ひとみ》に映った。延びようとする枝が、一所《ひとところ》で伐《き》り詰められているので、股《また》の根は、瘤《こぶ》で埋《うず》まって、見悪《みにく》いほど窮屈に力が入《い》っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を隔《へだ》てて、垣根の外を見下《みおろ》すと、汚《きた》ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団《ふとん》が遠慮なく秋の日に照りつけられている。傍《そば》に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた。
 ところどころ縞《しま》の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、乏《とも》しい髪を、大きな櫛《くし》のまわりに巻きつけて、茫然《ぼんやり》と、枝を透《す》かした梧桐の頂辺《てっぺん》を見たまま
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