薇の蔓《つる》の届かぬ限りを尽くして真直に聳《そび》えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄《もや》の奥から落ちて来る。
足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥《はるか》の下が、平《ひら》たく色で埋《うず》まっている。その向う側の山へ上《のぼ》る所は層々と樺《かば》の黄葉《きば》が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明《あきら》かで寂《さ》びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿《うね》って動いている。泥炭《でいたん》を含んだ渓水《たにみず》は、染粉《そめこ》を溶《と》いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
後《うしろ》から主人が来た。主人の髯《ひげ》は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装《なり》も尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥《くるま》の膝掛《ひざかけ》のように粗《あら》い縞《しま》の織物である。それを行灯袴《あんどんばかま》に、膝頭《ひざがしら》まで裁《た》って、竪《たて》に襞《ひだ》を置いたから、膝脛《ふくらはぎ》は太い毛糸の靴足袋《くつたび》で隠すばかりである
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