《かす》んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸《す》いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔《むか》し、二百年の昔にかえって、やすやすと寂《さ》びてしまう。人は世に熟《う》れた顔を揃《そろ》えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地《じ》を透《す》かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。
自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年《いくねん》十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色《ねずみいろ》に枯れている西の端に、一本の薔薇《ばら》が這《は》いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟《はさ》まった花をいくつか着けた。大きな弁《べん》は卵色に豊かな波を打って、萼《がく》から翻《ひるが》えるように口を開《あ》けたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香《におい》は薄い日光に吸われて、二間の空気の裡《うち》に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上《のぼ》って行く。鼠色の壁は薔
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