のがなかったのだそうである。
 倅は道具屋は廃《よ》しになさいと云った。老人も道具屋はいかんと云った。二週間ほどしてから、老人はまた桐の箱を抱《かか》えて出た。そうして倅の課長さんの友達の所へ、紹介を得て見せに行った。その時も鉄砲玉を買って来なかった。倅が帰るや否や、あんな眼の明《あ》かない男にどうして譲れるものか、あすこにあるものは、みんな贋物《にせもの》だ、とさも倅の不徳義のように云った。倅は苦笑していた。
 二月の初旬に偶然|旨《うま》い伝手《つて》ができて、老人はこの幅《ふく》を去る好事家《こうずか》に売った。老人は直《ただち》に谷中《やなか》へ行って、亡妻のために立派な石碑を誂《あつら》えた。そうしてその余りを郵便貯金にした。それから五日ほど立って、常のごとく散歩に出たが、いつもよりは二時間ほど後《おく》れて帰って来た。その時両手に大きな鉄砲玉の袋を二つ抱えていた。売り払った懸物が気にかかるから、もう一遍《いっぺん》見せて貰いに行ったら、四畳半の茶座敷にひっそりと懸かっていて、その前には透《す》き徹《とお》るような臘梅《ろうばい》が活《い》けてあったのだそうだ。老人はそこで御
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