社寺局へ出て四十円の月給を貰っている。女房に二人の子供がある上に、大刀老人に孝養を尽くすのだから骨が折れる。老人がいなければ大切な懸物《かけもの》も、とうに融通の利《き》くものに変形したはずである。
 この懸物《かけもの》は方一尺ほどの絹地で、時代のために煤竹《すすだけ》のような色をしている。暗い座敷へ懸けると、暗澹《あんたん》として何が画《か》いてあるか分らない。老人はこれを王若水《おうじゃくすい》の画いた葵《あおい》だと称している。そうして、月に一二度ぐらいずつ袋戸棚《ふくろとだな》から出して、桐《きり》の箱の塵《ちり》を払って、中のものを丁寧《ていねい》に取り出して、直《じか》に三尺の壁へ懸《か》けては、眺めている。なるほど眺めていると、煤《すす》けたうちに、古血のような大きな模様がある。緑青《ろくしょう》の剥《は》げた迹《あと》かと怪しまれる所も微《かす》かに残っている。老人はこの模糊《もこ》たる唐画《とうが》の古蹟に対《むか》って、生き過ぎたと思うくらいに住み古した世の中を忘れてしまう。ある時は懸物《かけもの》をじっと見つめながら、煙草《たばこ》を吹かす。または御茶を飲む。で
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